余命

 余命の話の続きである。
 ぼくの余命は、十月にあと二か月だと宣告された。それがそのとおりならそろそろ死に時なのだけれども、十一月の終わりに「もう二、三か月でしょう」と訂正された。つまり現状では来年の一月か二月まででということである。
 ところがである。当の本人であるぼくは、まったく死ぬという実感が湧いてこないのだ。むろん、生き続けられるかもしれないなどという根拠のひくいあまい期待などは微塵にも持っていないが、かといって死ぬのだという実感もこれまたない。不思議な感覚である。

 毎日の生活でも、ヘモグロビンが落ちて来ると歩くのにちょっとしんどくなるが、そうなれば主治医が赤血球を輸血してくれるので元にもどる。その他は、しりが痛かったり下痢になったりはしているものの、日常生活で死を予感させる要素がないのだ。何度も高熱を発したが、今回のようにその都度下がっている。
 要素がないから死を実感できないのであれば、たとえば寝たきりになって動けなくなったりしたら「ああ、おれは死ぬのだ」と実感するのだろうか。いまだそうなったことがないからわからないが、ことによると、そうなってもなお、死ぬという実感を持てずにいるかもしれない。なんとなくそんな気がするのだ。

 人間いや、生きものはみな、「生きたい」という希望のような軽いものではなく、「生きるのだ」という確固たる信念のもとに生きているような気がする。だからどんなに弱っても、ひん死の状態に陥ってもなお、自ら死を選んだりせず、生をあきらめないのかもしれない。

 一方、死が近づいた動物たちの行動、じっとうずくまって黙って死を待つ状態……、おそらく動物には死という概念はないだろうから、「なんか調子悪いなあ、じっとしてよう」くらいのことなのかもしれないが、自分に与えられた生命の時間の最期をじっとしずかに受け容れているかのごときその姿は、生とはまた別に崇高ですらあると感じる。

 今のぼくは非常に宙ぶらりんである。
 生きる希望もなく、かといって死ぬ実感もなく宙ぶらりんな気持ちのまま、毎日何をすることもなく無為に生きている。ただ生きているだけである。
 移植前はけっこう元気があったので病室で長編を書いたりできたが、移植、そして再発からこちら、すっかりそういう意欲をなくした。
 無為に食事をして、無為に輸血を受け、無為に生きている。これはたいへん無駄なことだと思う。人間だれでも、誰かのためにすこしでも役に立って初めて生きている価値があるといえるので、このまま治る見込みもなく無為に一日一日を消費してゆくのかと思うとやりきれない。
 ぼくはいったい何をしたらいいのだろう。