献血の有効利用について

 どんよりと曇りである。
 天気予報では、夕方には雨が降るらしい。
 今はそうでもないが、無菌室に監禁されていたころは、曇りの日が好きだった。晴れていると陽射しの刺戟が強すぎてカーテンを閉めていた。あらゆる刺戟に対して敏感になっていたようだ。今でも午後からの陽射しにはカーテンを閉めるが、それは単に暑いからであって、日差しの刺戟に対してではない。そして今日はその必要もなさそうだ。

 今日は、いつものとおり朝から三本と夕方一本の点滴にくわえて血小板と赤血球の輸血があったので、ほぼ丸一日点滴棒につながれっぱなしであった。
 相変らず輸血のはじめとおわりには合掌しているのだけれども、つなぐときに思うことがある。
 それは、同じ善意の献血によって得られた血液ならば、ぼくのような死ぬのが九割で余命も短い人間でなく、生きるのが九割の人間に提供したほうがよほど有効的なのではないかということである。
 とはいえ短い余命であるが輸血を受けなければそれすらまっとうできないので輸血をつないでもらうのだが、そのたびに、申し訳ない申し訳ないと思うのである。

 さて、ぼく本人は、相変らずこうやってぼうっと点滴に繋がれているだけの生活だが、ぼくの身体の中では弱小白血球と白血病大魔王とのせめぎ合いが続いている。先日の主治医の話では、白血球軍団もこれまでの三段目から、小結か前頭あたりまで強くなってきているとのことであった。喜ばしいことではあるものの、少しくらい強くなったところで相手が大横綱であることに変わりはないのであるから、そうそう金星がとれるものでもあるまい。

 ともあれ、午後もひたすら点滴棒につながれながらよく生きよう。
 一日一日、まだ生きていること、まだ歩けることに感謝する日々である。