死ということ

 昨日は高校時代の友人らが二人来てくれた。彼らはもう二度も三度も来てくれている。いつも遠く神奈川県の逗子から来てくれるのだ。有難いかぎりである。来るたびに昔ばなしに花が咲く。

 彼らが帰り、夜になってからまた熱が上がってきて、おとといに引き続き四十度を超えた。解熱剤はもうその日使える分は全部使い切ってしまっていたのでもう使える薬もなくうんうんうなっていた。
 やがて午前0時を過ぎたころから自力で少しずつ熱が下がり始め、今朝五時にはなんとか六度台まで下がった。この熱は何の熱だかわからないが、出だしてからかれこれもう一か月近くになる。GVLでドナーが白血病と戦ってくれている熱ならまだ我慢のしがいもあろうものだが、身体が蝕まれていく熱ではやりきれない。
 一方、芽球の数は二日の採血では三十パーセントだったものが、翌々日の四日の採血では二十六パーセントに下がっていた。これはまずまずちょっとした朗報である。それだけ悪い血球が減ったということなのだから。
 今は免疫抑制剤は一切使用していない。そこでドナー細胞がGVL効果でぼくの白血病細胞を攻撃してくれているのならよいのだが。

 免疫抑制剤をやめたが、今のところGVHDは出現していない。この高熱の原因がそうなのかもしれないが、そこは確たることはわからない。
 ともあれ主治医から再発を宣告されてから、かれこれもう一週間と四日になるが、まだ普通に歩けている。
 どうも、余命二か月と宣告されているにも関わらず、自分が死ぬということについての意識がきわめて薄い。はたしてぼくはバカなのか、それとも現実から逃げているのか、はたまたそんなものなのか。毎日やってくる四十度くらいの熱では死ぬ実感などはわいてこない。もっともっと具合が悪くならないと死ぬと感じないのだろうか。
 死を知らない動物たちはどうなのだろう。具合が悪くなると、騒ぐことなくひたすらじっとうずくまる。そして自分が死ぬということを知らぬうちにいつの間にか死んでしまう。余命宣告も死への恐怖もないにちがいない。
 人間の死というものも本来はそういうあり方なのかもしれない。