そんなに長生きをしてもなあ……

 今朝の好中球数は千であった。まずは大台をこえた。口内炎もどんどん良くなり、もうほとんど痛みはなくなった。
 これまでずっと閉ざしてきた窓のカーテンを思い切って開けた。
 青い手賀沼と白い雲と、トミカタウンのような立体交差点……。いつもの景色だけれど、この部屋に来てからはじめて落ち着いて眺められた気がする。
 気分が沈みこんでいる日のカーテンは閉ざされっぱなしだった。晴れの日などは眩しくて刺戟が強すぎた。夕方から夜にかけてのわずかな時間、うすく開けて、隙間からのぞくように交差点を流れゆく車のテールランプを眺めた。

 今日は主治医が居なかったが、朝の採血の結果、血球数は千を超え、肝臓の数値もHやLが減って正常値が多くなってきたので、今の完全監禁が解かれる日もそう遠くないと思われる。そうして行動許可範囲が院内自由になる日を一日千秋の思いで待っている。そう、ミズキの下へ行ける日を。

 窓の外では今日も、現実社会が粛々と活動している。隔絶された窓の中からそれを眺めながら、ぼくは不思議とゆったりと落ち着いた、やさしい気持ちになった。
 ここへ来てから半年が過ぎ、四月の春の日から初夏、盛夏、そして今、秋へと、毎日眺めてきたこの気色も移り変わってきた。

 ぼくの命は今、川面に浮き漂う木の葉のように波に翻弄されているのだけれども、この先どこへたどり着いても、おそらく後悔という気持ちは浮かんでこないのではないかと思う。残念であるとか、悔しいであるとか、そういう感情もだ。さいわいにしてよいところに流れ着ければラッキーであるが、かといって強烈にあれがやりたい、これをやり残しているということも特にない。ちょっとドライブして旅に出てみたいくらいである。諦観と言われてしまえば確かにそうだが、それが本心なのだから致し方ない。

 いつか、父親を見舞ったときに彼が言った言葉を思い出した。
「もう、そんなに長生きしてもしようがないからなあ……」
 その気持ちが、なんとなくわかる。
 それは、けっしてわるい感情ではないのだ。ゆったりと落ち着いた、満足の境涯なのだ。