ひとのふり見てわがふり直せ

 昨夜、ミズキへ行ったら、それまで毎日騒々しく鳴いていた蝉の声はひっそりと静まり、代わりに秋の虫の音が聞えていた。今年は秋の訪れが早いのか、そんなに早く秋というものはやってくるのかと思ったが、そうであったのだ。季節は確実に夏から秋へと変わりつつある。

 むかし、ぼくの頭の中に病身の少女がいた。
 少女は自宅のベッドの上でしか生活できず、ベッドの上から窓ごしに見える庭の木だけをみつめて過ごしているのだ。その庭の木の若葉を見て春の訪れを知り、落葉を見て秋を知る。ずっとそんな生活をしている少女である。
 しかしふと思ってみれば、自分が今同じような毎日を過ごしていることに気付いた。ベッドの上からでこそないが、毎日このミズキに通い、そこで季節の移り変わりを感じ取っている。似たようなものだ。

 ミズキの下には、相変らず吸殻がポイ捨てされている。毎日拾っても新しく捨てられる。その吸殻のほとんどがケントの吸殻である。一度このケント野郎の顔を見てみたいものであるが、ぼくは彼に対してポイ捨てを注意する立場にはないので、黙ってその顔を見て、ははーんと思うだけであるが。
 ぼくはぼくで勝手に吸殻を拾っているのである。
 むかしはタバコのポイ捨ては当たり前だった。ケント野郎はまだその「むかし」に生きているだけのことなのだ。前にも言ったと思うが、常識というのはひとの数だけあるのだ。あるひとにとっては非常識と思えることでも、そのひとにとっては何らの疑問もなく常識の範疇であることが少なくない。今のこの病室での共同生活においてもしかりだ。よっこら氏のよっこらしょどっこいしょもひとり言も、彼にとってはきわめて常識的行為なのだろう。彼が朝使った洗面台は、鏡に歯磨き粉が飛び散り、流しには髪の毛がへばりついているのだが、彼は一向それを気にする風もない。次に使うひとへの気遣いとかそういうものは彼の常識の範疇にはないのだ。ただそれだけのことでけっして悪意があるわけでもない。

 気配消しの達人のタカハシさんは、そういう点ではすばらしかった。
 彼は洗面台を使うたびに汚れをきれいに拭きとっていた。ぼくは彼からこの部屋での共同生活における大事なことをたくさん教わった。誰に何を言うでもなく、黙ってそういうことができるタカハシさんは、まさに尊敬に値した。
 まさに、ひとのふり見てわがふり直せ、である。