文句と、ありがとう

 昨日で抗がん剤がおわってから一週間が経った。
 今回は今のところ発熱もなく、かゆみももうほとんど気にならない程度におさまり、好調である。あと一週間くらいは血球がいちばん低いところなので注意が必要だが、ぜひともこのままいきたいものである。
 そろそろ輸血がはじまり、昨日は血小板を入れた。入れる前に拝むのを忘れてしまったので、おわってから空になったバッグを拝んだ。これも奇特などなたかの血液からとった貴重な血小板なのだから、感謝して最後の一滴まで無駄にしてはいけない。
 
 向かいのタカハシさんは、今月なかごろに退院のはこびとなったらしい。めでたい。
 僕がここに来たときは、「私は再発ですので、もう死ぬのを待つだけですよ」などと言っていたのを思い出すと、じつに劇的な回復である。
 よかった、よかった。
 一方、お菓子のイーダさんは現在三回目の抗がん剤投与中で、発熱でちょっとつらそうである。
 
 さて残るはくそジジイ。
 昨夜はなにやら看護婦に文句を言っていた。もう消灯も過ぎてから、わけのわからんことで延々と。
 おわったと思っても、看護婦が来るたびにまた文句がはじまり、十二時すぎまでぐずぐず言っていた。最後のほうは空調が気に入らないとかで文句を並べていたが、そんなことを夜中に看護婦に言ったってしようがないではないか。
 僕はたまたま起きていたのだが、寝ていたら安眠妨害である。消灯時間は午後九時なのだから。
 
 文句を言われていた看護婦はかわいそうだった。年配の、ある程度責任ある立場の看護婦だったが、ひと言も反論せずだまって聞き、わびていた。ここの看護婦たちは、患者の文句に対しては基本的に抗弁しないことにしているようである。えらいものだ。
 それに比べてジジイは、くそジジイであるうえに文句ジジイでもあったようで、夜中になんだかまたいやな気分にさせられてしまった。
 
 前のマシンガン氏もそうであったが、一患者が病院のやり方や体制について文句を言ってもしようがないし、言うべきではないのではないかと思う。その病院にはその病院なりに考えられてきたやり方、体制というものがあるのだから、患者としてそれが気に入らないなら転院しなさいよということだ。
 しかし、そういうことに口を出し、言ったのに何も変わらないなどと、さらにまた文句を言う種類の人間というのがいるものだ。
 そしてマシンガン氏がそうであったように、そういう人間というのはどこへ行っても、誰に対してもちからいっぱい文句ばかり言っているのだろう。さみしい人生である。
 
 僕はまだ入院期間が短いからかもしれないが、文句などひとつもない。みんなよくしてくれるので、毎日「ありがとう」しか出てこない。
 点滴を入れてくれてありがとう。
 掃除をしてくれてありがとう。
 食事を持ってきてくれてありがとう。
 いつも笑顔をありがとう。
 入院以来、毎日何度も何度も「ありがとう」を言い続けてきたので、すっかりありがとうが軽く出るようになり、今ではコンビニで買い物したときなどはもちろん、エレベーターで乗り合わせたひとに対しても、ちょっとしたことで「ありがとうございます」と言えるようになった。
 
 これはちょっとうれしい。
 関東人は基本的にあまりありがとうを言わない。コンビニのレジでもめったに聞かないし、タクシー時代にも、降りるときにありがとうと言うひとは十人に一人くらいであった。そしてそのひとりは関西のひとだったりしたものだ。「ありがとう」の「とう」にアクセントがあるからすぐにそれとわかる。
 
 欧米人は、買い物をしてもかならず「サンキュー」と言う。関西のひともそうであるので、僕もいつからかそうしようとしてきたが、なかなか心のこもった「ありがとう」はむずかしい。まだまだである。
 ともあれ、文句ばかりを言うよりは、ありがとうばかりを言っていたほうが気持ちがよいし、いろいろなことがうまくはこぶのではないかと思う。やはり人間は感謝のこころを忘れてははならないと、くそジジイのおかげで再認識できた。
 ジジイありがとう。