日本国憲法第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する

 病棟の裏口を出ると、目の前に新しいきれいな建物があり、入り口の前にいつも数人の男たちが立っている。
 入り口はカードキーで厳重にロックされている。
 男たちの顔ぶれはそのときどきで違うが、みな一様にスーツを着て黒いカバンを持っている。
 男たちは、ときに何時間もそこに立ち続ける。
 
 彼らは製薬会社や医療機器メーカーなどの営業である、お目当ての相手に会えるまで、雨の日も風の日もひたすら待ち続けるその姿には頭が下がる。

 僕がタクシーをやっていたころ、製薬会社のドクター接待はおいしい仕事だった。製薬会社のタクシーチケットで遠くまで帰宅するお客さんが多かったからだ。
 軽貨物をやっている友達は、一時期お弁当の配達をやっていた。ほか弁やコンビニ弁当ではない。れっきとした料亭レベルの高級弁当である。これも製薬会社から病院の医師のもとへ無料で届けられる。ドクターはべつに公人ではないのだから、接待や贈り物をうけても何ら問題はないと思われるが、まあそういうたいへんな世界なのだ。
 そうしてめでたく納入された機器や医薬品がわれわれの命をつないでくれているのである。
 
 そしてさらにわれわれの命をつないでくれるもの、それは献血である。
 僕らにひんぱんに行われる輸血の血液は、百パーセント献血に頼っている。このありがたい献血なくしてわれわれの命はない。僕は生まれてからこのかた一回しか献血をしたことがないが、こんなことならもっとたくさん献血をしておくのだった。
 
 さらに移植にいたってはドナーさまのたいへんな苦痛とリスクのうえに成り立っている。仕事を休んで入院し、全身麻酔下で腰骨に何十カ所も穴をあけ、その奥の骨髄を一リットル以上も吸引するのだ。その間の休業補償もないのだから、たいへんな自己犠牲である。僕だったらとてもそんなことはできない。
 そういうドナーさまの善意のうえにわれわれの命は保たれるのである。骨髄の一滴、血の一滴まであだやおそろかにしてはバチがあたるというものだ。われわれはそういう人さまの情けにすがらねば生きてゆけないのである。

 こういう病室などにずっといると、「あ、移植おわったのですね」、「経過順調でよかったですね」というこちら側の都合ばかりが先に立ってしまいがちだが、当然のことながら、僕らはそういう見えないドナーさまの犠牲と善意を片ときも忘れてはならない。僕が移植をうけるときはもちろん、これからは輸血の際も血液の入ったバッグに合掌してからつないでもらうことにしよう。
 そのくらいの気持ちが大切なのだ。

日本国憲法第二十五条 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

 いきなりだが、僕らはこの条文をよりどころとする健康保険や高額医療費制度によって医療費の負担額を大幅に減免してもらっている。白血病の治療費は、ひと月でゆうに百万円を超えるのだが、それをそれぞれの収入に応じて数万円から数十万円でかんべんしてもらい、残りの分は国が補助負担してくれているのだ。

 仮にこの条文が、
「すべての国民は、それぞれの社会に対する貢献度に応じて健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
 と書き替えられたとしよう。そして「社会に対する貢献度審査機関」が設けられたとしたらどうだろう。たとえば十段階評価で、政治や経済、また、芸術やスポーツ、文化などで功績のあった人と、そうでない人を審査し、その評価に応じて医療費も保障されるというシステムである。機関の評価決定は絶対で不服申し立てはできない。
 たとえば、
「あなたはオリンピックで金メダルをとったので評価十、医療費は全額免除、差額ベッドで二十四時間完全付き添いおねえちゃん付きです」とか、
「あなたは大臣時代にこれこれの功績があったので評価八、医療費は二割負担です」などとなるのだ。もしくは、
「あなたは子供を十人も生んで社会に貢献したので云々……」
「あなたは戸締り用心火の用心で云々……」
 といったぐあいである。
 
 もしもそんなことになったら、僕などはほとんど社会に貢献していないのでほぼ全額自己負担を強いられ、それはとても払える金額ではないので、仕方なく野垂れ死にする以外にない。
 たいして社会貢献もしていないにもかかわらず今日もなんとか野垂れ死にもせずこうして入院生活を送れているのは、そうやって国とか人さまの善意にすがって生かしてもらっていることに他ならない。
 ありがたや、ありがたやである。