エリーの死、その後

 天気はよいのだが、どうも心が晴れない。
 ミンザイの持ち越しのせいかウツのせいかわからないが、朝から調子がおもわしくなかった。熱はないが頭と身体が重く、昼食後にすこし横になったらそのままうとうとしてしまい、三時をまわるころになってようやく持ち直してきた。
 
 その年の春から秋にかけてがんばってくれたエリーだったが、年末から体調をくずしてしまった。後からわかったことなのだが、エリーは過去に骨盤骨折をしたことのある馬だった。だから後肢の運びに独特の不自然さがあった。
 それでもなんとか元気を取りもどしてもらおうとあらゆる手立てを尽したのだが、やがて歩けなくなって死んでしまった。そしてエリーの死とともに僕の馬車屋人生も終わりを告げた。
 膨大な借金だけが残り、僕は途方に暮れた。
 その後、友だちをたよって新たな仕事を始めたが、さんざんいいように利用され、僕はすっかり心と身体を壊してしまった。そしてこの病気を発症した。
 
 きっかけは微熱と足のむくみだった。近所の総合病院へ行ったが原因はわからなかった。ただ、貧血がひどい状態なので内蔵の検査をし、血液内科のある病院でもしっかり検査をしてもらうべきだと言われた。
 けれども僕の血が薄いのは今にはじまったことではなかったので、ちょっと体調を崩しているだけだろうと思い、様子をみることにした。しかし体調はよくなるどころかどんどんわるくなっていった。そして動悸と息切れがひどくなり、やがてまともに歩くことができなくなってしまった。
 ここへきて僕はやっとこれはおかしいと思うにいたり、この病院の門をたたいたのである。
 
 外来で来て、そのまま入院となってしまったのだけれど、あのころに比べれば今は元気になったものである。けっして病気がよくなったわけではないし、今週は血球もいちばん少なくなっている時期なのだが、普通に歩けるし、階段だってのぼれる。当時は階段を五段ものぼったらいったん立ちどまって呼吸を整えなければならなかった。僕の白血病赤血球もこわすタイプなので、おそらく身体に酸素がほとんどまわっていなかったのだろう。アタマもつねに、酔ったようなふわふわした状態だった。今思えば、よくそんな状態で普通に生活し、仕事までしていたものだ。人間とはおかしなものでそんな状態になってもまだ僕は、「自分は病気だ」とは思っていなかった。

     ◇
     
 749号室にあたらしい患者がきた。
 おかげで僕のベッドからはまた窓が見えなくなってしまったのがひじょうに残念である。マ氏がいなくなってせっかく広々した眺めがもどってきたと思ったのに。しかしこれも多床室の宿命であるからいたしかたない。
 あたらしい人が来ると聞いたときに「僕はちょっと閉所恐怖症気味なので窓がわに移動させてください」とナースステーションにお願いしてみたのだけれど、時すでに遅しであった。今度この人が出るときに、もう一回お願いしてみようと思っている。自分が朝から晩までいる場所から窓が見えるのと見えないのとでは雲泥の差なのだ。
 
 あたらしい人はマ氏とおなじく骨髄移植が終わって無菌室からこの部屋に移動になったようである。今度はどんな人かと思ったら、まったくあいさつというものをしない人だった。
 ふつう、あたらしく入ってきたらせめてあいさつをして名前くらい名乗るものと思うのだが、そういうものはまったくない。僕がカーテンを開け放してずっとベッドサイドでPCをいじっていてもだ。なので僕からもあいさつをしなかった。その人の家族も数人来ていたが、最後まで誰ひとり僕に声をかける人はいなかった。世の中にはそういう一族もあるのだ。
 
 ちらと横目で見たその人は大分年配のようだった。名前がわからないので隣のオジサンと呼ぶことにしよう。オジサンは、まるで一人でこの部屋にいるかのごとく、ほんとうに誰とも口をきかない。もっともトイレなどの用事のとき以外はずっとカーテンを閉めて寝ているから口をきくタイミングも限られてはいるが。
 まあ、あいさつや会話が出来なくても、めいわくさえかけてくれなければ問題はないと思われるのでよいのだけれど。

 僕はオジサンが出たあとの無菌室をのぞいてみた。
 部屋は思ったより広かった。ベッドまわりも今より広く、大ぶりのベッドテーブルがあった。トイレ・シャワー・洗面台などは室内にすべてそろっており、落ち着いた雰囲気でなかなか快適そうであった。
 そこから一歩も出られないこととタバコを吸えないことをのぞけば、今すぐにでも入っていいと思った。なにしろ個室なのだから誰に気兼ねをする必要もなく、ケータイもかけ放題だし、テレビも音楽も好きに音を出してよいのだ。ぜひともボーズのスピーカーをもってこよう。
 とはいえ、それは今僕がさして苦しんでおらず、のうのうと生活をしているからそう思うのであって、ハードに苦しんでいたら広かろうが個室だろうが関係ないだろう。どうせ入るなら、できれば安定した状態で入りたいものである。
 ともあれまだまだこの先数か月、長いたたかいなのである。