もっとも苦手な自己管理

 昨日いちにちたっぷりと慈雨を含んだミズキは朝の冷えた空気に葉をいっぱいにひろげ、陽光に緑色のまるい幾何学模様の濃淡を映しだしていた。
 毎日ミズキの話ばかりで飽きるだろうけれど、ちかごろまたひとつ気がついたことがあるのだ。
 
 ミズキは二本並んで生えており、一本は老木、そしてもう一本は若木である。老木はいかにも長い年月の風雨を幹や枝に刻んできた貫禄があり、一方若木のほうは枝ぶりもいかにも若々しく、天にむかって大手をひろげて精いっぱい伸びつつあるという樹勢である。
 僕はいつも若木のほうの根元に腰をおろしている。
 
 以前、ここにくるとふと自分を取り戻せるのだといったけれども、さらにじっと黙って心を澄ましているうちに、僕はいつもこの若いミズキからエネルギーをもらっていたことに気付いたのだ。いや、エネルギーというよりは、しずかにそっとちからを注いでもらっていたと言ったほうがふさわしいかもしれない。
 
 僕がここに来るのは日に数回、毎回ほんの五分か十分のことである。けれども、腰をかけて木を見上げた瞬間に、木のちからが僕におりてくるのだ。それは目に見えるものではないし、ほんとうにごくわずかに、そして音もなくそっとだから今まで気がつかなかったけれども、たしかに僕は毎回この木からちからをもらっている。だから僕は無意識のうちにこの木の根元にいつも来ていたのだと知った。
 
 長い時間そこにいる必要はない。腰をかけて見あげた瞬間にすっとそれが入ってくると、心のなかに澱のようにたまっていたストレスがさらっと流れ、その澱のなかに沈み込んでいた自分が浮かびあがってくるのだ。そして頭がはたらきだしていろいろな考えが浮かんでくる。ほんの五分か十分のことである。
 
 今までこんなことは経験したことがなかった。
 木とはじつに不思議なものである。それは僕が今弱っているから感じられるだけのことなのかもしれないが、この木があるだけで、この病院は今の僕にとっては最高の病院なのである。そしてこういうことも、病気が教えてくれていることなのかもしれない。

 今、治療のほうは二回目の抗がん剤が先週おわり、白血球は根こそぎ退去し、今週、来週あたりがもっとも免疫力が落ちている時期である。前回はこのあたりで高熱が出た。そこで今回は対策を練った。
 このクリーンルームから出なければそれに越したことはないのだろうが、そういうわけにもいかないので、マスク・手洗い・うがい・消毒を徹底することにした。
 部屋から出たらマスクは一回ごとい使い捨て、石鹸で丁寧に手を洗い、うがいをしつこくする。喉の奥までする。鼻うがいも欠かさない。そして外で手に触れたもの、カバンや点滴棒などは殺菌シートで拭く。ウィルスや最近がいかにもそこに付着しているイメージでやるのだ。ついでいサンダルまで消毒してしまう。とにかく外で付着したそういうものを根こそぎきれいにするという徹底抗戦である。
 
 先日、書類を投函しに一回玄関外のポストまで行った。その帰り、意を決して一回正面玄関からロビーを突っきって戻ってきた。ウイルス、細菌、真菌、悪魔、魍魎の巣窟を通り抜ける覚悟で挑んだが、消毒作戦が功を奏したのか、何ごともなかった。
 これをミズキに行くときにも徹底している。もっともミズキコースとロビーではウィルス、細菌の数は比べものにならないだろうが。

 そして口腔ケア。これもみんなやっているが、毎食後歯を磨く。ひたすら磨く。朝も磨く。寝る前も磨く。口の中というのは大腸より細菌が多いらしいので、これをしっかりやらないと口内炎になったり最悪肺炎をおこしたりするらしい。ずぼらな僕にはちときついが、なんとかそこそこできていると思う。一回三十分はかけてていねいに磨き、先日もらった殺菌うがいの後に歯周病の薬を塗りつけるのだ。
 
 さらに毎日シャワーに入って身体を清潔に保つ。相変らずボディソープも何も使っていないのだが、今だけ使った方がよいのかどうかはわからない。看護婦にきけば「使ってください」と言われるに決まっているので聞かない。ひたすらお湯で洗っている。今までずっとこのやり方でやってきたのだから、僕にはこれがいちばんあっていると信じているのだ。もとより皮膚の常在菌を根絶するなど不可能なのだし、そんなことをしてはいけない。要は、どこまでやるのかだと思う。
 ともあれ、部屋から出ないように無理をするよりは、出ても大丈夫なように努力するほうが僕の性には合っている。監禁、禁煙のほうの修行は追っておいおい。なにしろ半年間におよぶ長丁場なのだ。
 
 ウィルス、細菌たちが目に見えないのとおなじように、それに対抗するこちらの免疫力というものも目に見えない。見えない同士のたたかいなのでこれはなかなか難しいし根気が必要だ。ほんとうにこの病気は見えないものばかりなのでわかりづらいのだ。
 ミズキの根元にテントを張って、一年くらいそこで生活したら勝手に治ってくれないものかと思うが、そういうわけにもいくまいなあ。