理想の夫婦

 空が晴れた。
 僕の心も晴れた。
 ひさしぶりにカーテンを開け放した窓いっぱいから射しこんでくるさわやかな朝陽と輝く緑を堪能している。

 昨日、マシンガン氏がこの部屋からご遷座なさったとたんに僕は急にストレスから解放され、あれだけの劇症しゃっくりがぴたりととまり、かゆみもなくなってきた。自分でも驚いているのだけれども、そういうことというのはあるものなのだなあ。ストレスというのはじつにばかにならぬものである。
 そう思うと、仕事をしている多くの人たちのストレスはこれをはるかにしのぐのだから、それによって具合がわるくなるひとたちが大勢いるのも当然である。僕もこないだまではそうであった。
 
 そして昨夜は久しぶりにマシンガンいびきからも解放されたのでよく眠れ、早朝にすっきり目が覚めたので、久しぶりに明け方にミズキの根元へ行った。
 朝のすがすがしい森の空気と、ミズキと、ヒヨドリの遊ぶ声がさわやかであった。いつも言うように、ほんの十分ほどでもここに身を置くと心がリフレッシュする。看護婦やドクターたちは当然そういうことは固く禁じるのだが、早朝の森の空気がウィルスや細菌にまみれているとは思えないし、むしろその逆で、僕らの身体にとってなにかとてもよいものが含まれている気がする。

 気持ちがいいなあ、すがすがしいなあと思えるところにはかならずよいものがあるのだと勝手に自分で解釈して、僕はこっそりそこへ通うのだ。もちろんイップクするという重大な目的もあるのだが……。
 こういうところで一日に一~二本のタバコを吸ったところでどれだけの害になるというのか。人間、一日に何度かは陽の光を浴び、外の空気を吸いこまねばならんのだ。一日中陰鬱とした病室にこもっているほうがよほど身体によろしくないにきまっている。それでは健康なひとでも病気になりかねない。留置所や刑務所ですら毎日一回、運動と称して日光浴をさせるのだから。

 さて、マ氏がいなくなって、749号室恒例の朝の懇談会がまた復活した。朝、食事の前や後に窓際の椅子にこしかけてとりとめのない会話をするのだ。それはひとときのだんらんの時間で、この部屋では貴重なコミュニケーションの時間なのである。懇談会といっても今は僕とタカハシさんの二人しかいないが、今まではそれもマ氏に遠慮してやっていなかった。
 タカハシさんは日中はいつもカーテンを閉めて気配を消しているのだけれど、けっして人ぎらいとか話ぎらいというわけではなく、マ氏が来る前はよく懇談会に参加していたのだ。
 
 今日はタカハシさんの奥さんの話になった。
 この人ができたひとで、毎日まめに洗濯物やらなにやら届けに来る。すぐに帰ることが多いが、それでも毎日こまやかにタカハシさんの面倒をみている姿には頭が下がる。
 タカハシさんにそれを言ったら、夫婦の馴れ初めから現在に至るまでの話をうれしそうに語ってくれた。なんと喧嘩を一度もしたことがないオシドリ夫婦なのだそうだ。じつにうらやましい。
 一方、イーダさんの奥さんも同じように毎日やってくる。こちらも負けずにすばらしい夫婦で、ひとり者の僕はそれを羨みながらひとりコインランドリーで洗濯をするのである。
 
 こういう夫婦をみていると、タカハシさんにしてもイーダさんにしても、奥さんに対する感謝の念がとてもつよい。それはもちろん奥さんの器量もさることながら、男としてできているのだろう。僕は結婚しているときはいつも文句ばかりだったから、それではうまくいきようがなかったのは当然である。
 口で感謝感謝といっても、心の底からそれを持てるというのはすばらしい境涯の高さといっていい。男としての境涯の高さがこういうすばらしい夫婦を作るのだなあと、この二人をみていてしみじみそう思う。そして境涯の高い男は――女にも同じことがいえるだろうが――同じように境涯の高い女と一緒になるようにできているにちがいない。
 
 同じ病室で長時間一緒にいると、そういう夫婦像までもが無言のうちに垣間見えてくるのが面白いが、この病室の人たち(いまはなきマ氏を除いて)はそういう意味でじつに境涯が高いので、若輩者の僕はたいへん勉強になるのだ。
 こういう夫婦たちとそばで接していると、僕も一度はこういう結婚生活を送ってみたかったものだと思うが、よわい五十を過ぎた今となっては、時すでに遅しである。