第三の人生、ぼくが馬車屋だったころ

「馬車馬のように働く」
 世にそういう言葉があるけれど、じつは御者はそれ以上に働いているということを人々はきっと知らない。この場合の御者というのは、単に馬車を操縦するために御者台に座っているというだけでなく、馬の世話から馬車の準備から何から何までぜんぶやるひとのことである。
 
 第一、第二の人生がそれぞれ終わり、そのあと馬車屋だったころが僕の第三の人生となる。ほんとうはトラック運転手から馬車屋の間には、洗剤の営業、損害保険の調査員、タクシー運転手などをあれこれやったのだが、それらはまた後日にゆずることにする。
 僕が馬車屋だったのは、それほど長い期間ではない。けれどもたいへん濃い時間を過ごした。だからそれはやっぱりひとつの人生といっても過言ではないと思うのだ。

 僕が馬車屋になろうと思ったのは、馬や馬車に詳しかったからというわけではない。そういう仕事についたこともなかった。ただ、若いころからウエスタンと馬が好きで、タクシー運転手として「ございます接客」などをしているうちにふと、馬車をやってみたくなったのだ。
 
 馬車屋の朝は早い。
 僕は自分の厩舎をもたず、乗馬クラブに馬をあずけていた。
 乗馬クラブの朝は早いが、馬車屋である僕はもっと早く、まだ暗いうちに誰もいない厩舎を出発することもあった。
 たとえば午前十時から馬車の稼働をするとしよう。最低でも一時間前には現場に到着してあれこれ準備をやらねばならないので、車で一時間かかるとしたら、八時には厩舎を出発する必要がある。そしてそのためには五時ころから仕事を始め、馬に餌をやり、全身をきれいに洗い、尻尾を編むなど身だしなみを整え、あらゆる必要道具や日中の餌・水などと一緒に馬を車に積まなければならない。
 そして現場に到着したら、すばやく馬と馬車を車から降ろし、馬装して馬と馬車をつなぎ、必要ならば水などを積んで稼働現場まで移動する。
 それらを僕はひとりで全部やっていた。馬をあずけていた乗馬クラブのオーナーがそれを見て「千葉さん、よくひとりでできますね」と驚いていた。しかし世界のどこをみても馬車一台を動かすのに四人も五人もでやっているところはない。どこでも御者兼オーナー兼飼育係兼雑用係がひとりでやっているのだから、これはとくに珍しいことでもないのだ。
 仕事から戻ったら、馬と道具をおろしてそれぞれきれいに洗い、馬を馬房に入れて餌と水を与える。場合によっては一日の疲れをとるためのマッサージなどしてやる。それにまた一時間以上はかかっただろうか。もちろん稼働中は御者台で馬を操作しなくてはならない。

 あるとき、遊覧馬車で客待ちをしているときに「なかなかいいお仕事ね」と言ったご婦人がいた。御者台でのんびりタバコを吸っている僕を見てそう言ったのだが、ご婦人は、僕が朝早くから夜遅くまで仕事をしているとはつゆも思わなかったのだろう。僕は、「勝った」と思った。そういう水面下の苦労とか努力はお客さんには見せてはいけないのだ。こういうブログも馬車屋をやめた今だから書けるのであって、やっているときにはけっして書けないことである。
 
 まあ、どちらがどうということでもないが、お客さんをたくさんのせた重い馬車を引っぱる馬もたいへんであるし、その世話を朝から晩までやるこちらもたいへんなわけで、ひとと馬のひとりと一頭、たいへん同士がタッグを組んで商売をしていたと、そういうことである。
 
 馬の名前はエリーといった。
 牝のペルシュロン種で体重は一トンちかくもある大きな馬だった。
 そして、たいていの事には動じず――それはあらゆるところで稼働しなければならない馬車馬としては最高の資質である――、それでいてよくこちらのオーダーに従うすばらしい馬だった。
 エリーはよく仕事を理解していて、馬車をつながずに引いて歩かせるときなどは嫌がって歩かないこともあったが、いったん馬車をつなげられると機敏に動いた。そしてどんなに自分がつらいときでも、手綱をとおした僕のオーダーにはよく従った。さくさんのお客さんにかこまれて撫でまわされることも仕事のうちとよくわかっており、そういうときにはいつもじっと黙って動かなかった。
 白くて大きな馬車馬のエリーは、行く先々でみんなに愛された。僕はずいぶんとこのエリーに助けられた。エリーでなければ素人の僕が馬車屋などできなかったにちがいない。
 
 エリーは残念ながら死んでしまったが、心から感謝している。
 エリーと共に戦った時間は、まさしく僕の第三の人生であり、すばらしく貴重で濃密な、忘れ得ぬ時間であった。


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