第二の人生、僕がトラック運転手だったころ

 ミュージシャン時代が僕の第一の人生だとするならば、第二の人生はトラック運転手だったころである。
 僕の職業運転手歴は、二十代の二トントラックから始まって、四トン、大型、長距離、そしてタクシー運転手、軽貨物と遍歴をかさね、ミュージシャンと掛け持ちだった時代もふくめれば足かけ三十年以上になる。大きいのから小さいのまで、じつに種々雑多なワッパ稼業であった。
 ワッパとはハンドルのことであり、僕らは多少自嘲的に、「どうせおれたちワッパだからよう」などと口にするのであった。
 
 第一の人生ミュージシャン時代は、バブルの崩壊とともに仕事がなくなり、それほど顔もひろくなく営業活動も苦手だった僕は必然的に廃業せざるを得なくなった。そしてトラック一本の生活になったわけである。
 
 数年後、マイクロソフト社からウィンドウズ95が華々しく発売され、翌96年が日本のインターネット元年となった。
 僕は、今はなきNEC98のパソコンから電話回線を通してインターネットの世界を物珍しげにうろうろしているうちにチャットにはまった。
 当時、自宅でパソコンをネットにつないでチャットなどにいるのはごく少数のマニアか、仕事でパソコンを使うひとたちくらいだった。そんなネット黎明期のチャットには今のように小中学生などはおらず、みんな小粋で、今もって忘れ得ぬたくさんの友情をチャットをとおしてはぐくんだ。ネチケットという言葉もあったりして、みな今よりずっとマナーにすぐれ、男も女もイカしたやつらがたくさんいたものだ。

 僕は小さなノートパソコンを買って、トラックのハンドルの上に乗せて夜な夜なチャットしながら日本全国を旅した。おかげで何度高速の降り口やインターを通り過ぎたことか。通り過ぎてはUターンし、また通り過ぎてUターンしたりの繰り返しをしたことも一度や二度ではなかった。
 大きな声で言ってはいけないのかもしれないが、目的地を通り過ぎたら次のインターの料金ゲートの手前でUターンするのだ。たいていカラーコーンで上り線と下り線を分けている部分があるから、トラックを停めてカラーコーンをどかしてUターンをする。その後はまたちゃんとカラーコーンを元の位置に戻すのも忘れずに。料金所のおっちゃんたちはべつにそれを見てもとがめることはなかった。トラックがUターンしようが彼らの知ったことではなく、カラーコーンさえ元通りになっていれば何の問題もなかったのだろう。

 北海道はさすがに行かなかったが、北は青森から南は九州五島列島まで行った。長崎港から五島へ渡るフェリーでたくさんのトビウオがいっせいに飛んでいるのをはじめて見た。彼らが百メートルくらい飛ぶのを見て僕はたいへんびっくりした。トビウオは九州ではアゴと呼ばれ、いい出汁になる魚でめずらしくもないが、関東では見ることのできない光景であった。
 
 冬の雪国はおそろしかった。とくに夜の峠越え。まっ白にホワイトアウトした吹雪の中、見えぬ道路に目を凝らしながら峠を越えるのは生きた心地がしなかった。そんな僕を尻目に地元のトラックがうなりをあげて追い越していったが、とても真似のできる芸当ではなかった。冬場の日本列島は、北へいっても西へいっても雪ばかりで難渋した。
 
 東名をいくときは、箱根の駒門SAでかならず水をくんだ。富士山の伏流水を地下からくみ上げた水は、まろやかでとてもおいしかった。なかにはポリタンクにふたつもみっつもくんでゆく運転手もいた。
 
 夏場、手積み手降しが続き、熱中症で倒れながらも積込みをやったこと、真冬にエアコンを最冷最強にして睡魔とたたかいながら朝まで走ったこと、雨の夜にワイパーが故障して動かなくなり、そのまま前の車のテールランプだけをたよりに朝まで走ったこと、一時間に百十五ミリという観測史上最高の豪雨の東名を、後からくる台風と競争しながら駆け抜けたこと、今となってはもうとてもできないが、みなよい思い出である。
 今でも、僕のうちのすぐ裏を通っている国道を深夜走り抜ける大型トラックを見るにつけ、当時をなつかしく思いだす。そして、(がんばれよ。事故らぬように)と心の中でエールをおくるのである。