第一の妻

 そのひとは、都内のとあるスタジオのスタッフだった。
 僕がミュージシャンだったころ、そのスタジオにひんぱんに出入りしているうちに懇意になり、結婚した。
 世は昭和から平成にかわって、まだ間もないころであった。

 僕は感情のコントロールをするのがたいへん下手である。とくに怒りの感情、これを抑えるのがもっとも苦手だ。
 タクシー時代、後部座席で繰り広げられる若い男女の痴話げんかを運転席で聞いていると、世の男たちは、「へぇ、そんなところで矛をおさめるのか」と感心するほど女性に強くあたらないことが多かった。
 しかし僕の場合はそうはいかなかった。相手が男であれ女であれ、いったん怒ったらとまらなかった。途中で矛を収めるなどという芸当はとてもできず、相手の肺腑をえぐるまで攻撃の手をゆるめないのが常であった。

 それは家庭でも同じであった。妻と喧嘩になれば、手こそあげぬものの口での攻撃はひどいものだった。相手に直接暴力をふるわないぶん、増幅した怒りを物にぶつけ、家具をこわし、壁に穴を開けた。
 やがて妻は耐えきれなくなって、子供を連れて家を出た。
「わたし、パパとママが仲よくしてくれるのがいいの」
 最後の日、上の娘が僕にそういって折り紙の手毬をくれた。それが彼女と交わした最後の言葉だった。下の男の子はまだ言葉を話せなかった。 
 その後、僕たちは離婚した。
 生きる目的を失った僕は、自分ひとりだけで生きてゆくことも、そのためだけに働くことももうできないと思い、死ぬ決意をした。が、生き残ってしまった。
 
 それ以来、僕は妻にも子供たちにも一度も会っていない。会おうと思えば会えたと思うのだけれど、月に一回、決められた時間だけ会うというのは、僕には耐えがたかった。いっそ僕以外の家族全員が津波地震で死んでしまったのだと思って、思いを断ち切るしかなかった。それは、おそらく子供たちにしてみれば父親に捨てられたと感じられたかもしれない。事実そういわれても返す言葉はない。
 
 この先もし、子供たちが僕に会いたいと言ってくれるなら、僕はよろこんで会うだろう。しかしそうでないかぎり、僕から会いにゆくことはないし、連絡をとることもない。僕にはその資格はないと思っている。
 
 けれども本心をいえば、今、子供たちに、こんな父親ですまなかったと謝りたい。そして何より妻に、あのときひどいことをしたことを両手をついて謝りたい。
 ほんとうにひどい夫であり、ひどい父親であったと思う。それもこれも僕のわがままで自己中心的で攻撃的な性格がわざわいしてのことだ。
 僕は、そういうしようのない男なのだ。