ええいままよ

 人間の三大欲求は、食欲、性欲、睡眠欲だと聞いたことがあるが、僕はちょっとちがうのではないかと思う。もっと生きものの根本として、「生存欲」というようなものがあるような気がするのだ。

 人はいろいろなものに意義とか目的をつけたがるので、生きていることに対しても、目標であるとか夢であるとかそういうものが大切であって、それなくして無為に生きることは堕落であるかのように思いがちだが、目標も、夢も、意義も、何もなくても「ただ生きていたい」と思うものだとこのところ感じている。むしろ夢や目標などという前向きしあわせ的なことよりも、苦しみや痛みのほうが多いとわかっていてすらなお、生きていたいと思うのではないだろうか。
 
 牛や馬などには、夢や目標はなさそうである。彼らはただ無意識のうちに生きたいから生きているのだ。おそらく僕らにも、そういうレベルで生きものの本能としての生きたいという気持ちがあるにちがいない。
 動物と人間は違うのだとか、ヒトのヒトたる所以はうんぬんと言っても、たぶんそうなのだから仕方がない。しょせん人間だって動物の一種類なのだ。
 
 僕はこのひと月と少し、生と死を向う側に据えて考え続けてきた結果、もうそれを考えることに飽きてしまったようだ。そして飽きた中からわき上がってきた気持ちが、そういう牛や馬と同じような、ただ生きていたいという感情であるような気がするのだ。
 この先の困難や苦痛についても、もう今から考えても仕方ないのではないか。考えようが考えまいが、そちらへ進めば来るときは来るのだ。それが来てもなお生きたいと思えば、生きる努力をするだろう。それは夢や目標などといった高尚なものではない。牛馬的生存欲であり、かつ、「ええいままよ」と荒れた川に漕ぎ出すような気持ちとでもいったらいいだろうか。

 ずいぶん前に、台風の後のおそろしく増水した久慈川カヤックで下ったことがある。一緒に行った友達は、あまりの増水ぶりに恐れをなして下るのをやめた。僕はしばし迷った後、ええいままよとひとりで漕ぎ出した。
 とたんに、どっぱんざっぱんどどどどーっという怒涛の波に僕のフネは木の葉のごとく翻弄され、ひっくり返された。そこをえいやっと起き上がり、必死で漕いだ。さいわいなんとか下流まで下ることができたが、あのときまかりまちがったら波にもまれて死んでいてもおかしくなかったなと今では思う。
 そのときのような感じだろうか。
 この場所にとどまっていることはできない。ふたまたの川の流れの右が滝なら、左に行くしかないではないか。
 ええいままよ、なのである。