人生は川に似ているのだ

 僕には夢があった。
 夢というとちょっと大げさかもしれない。将来の自分像とでも言おうか。
 僕は早くジジイになりたかった。それは今でも変わらない。ジャガーに乗って、グレーのスーツにウッドのステッキを携えて運転席から降りてくる、そんなジジイを目指していたのだ。
 
 そうだなあ、もしもこの先、数日の外泊が許されるとして、百万円くらいかければスーツ・シャツ・靴・ステッキ・バッグ・その他一式を買い、ジャガーとまではいかなくてもクラウンのいいところでもレンタカーで借りて、三~四泊の温泉旅行くらいできるだろうか。横に茶飲み友達でいいから気心の知れた素敵な女性が居てくれたりしたらシチュエーションはさらに完璧度を増すのだが、実現性はきわめてひくい。実現性はひくいうえに、きわめてシーチョー軽薄な願いである。
 
 思い返せばこの人生、さんざんに好き勝手なことをやらせてもらってきたと繰り返し言っているけれども、裏返してみればどれひとつとして最後までやり切ったことがないとも言えるのではないかと考え出した。結婚生活しかり、仕事しかり、趣味しかり。それは自分の意思でやめたものもあれば、自分の意思に反して続けられなかったこともあるけれども、石にかじりついてでもやり遂げたということがないのは事実だ。
 小学生のころ、親友に言われた言葉が今でも耳に残っている。
「おまえ、飽きっぽいよな」
 その時はなんということはなかったのだけれど、年を経るごとにその言葉の重みが増してくるような気がする。
 僕は飽きっぽいのかなあ……。自分ではそんなつもりはないのだけれど、これまでの人生の上でのできごと、事実を机の上に並べてみるとそうなのかもしれないと思わざるをえない。
 まあしかし、それならそうとそういう性分に生まれついてしまったのだからいたしかたあるまい。今までやってきたことはやり直せるものでもないし、今までやってきた結果が今の僕の置かれている境遇なのだから。半分は自己責任、半分は運命であろう。
 
 僕はべつに運命論者というわけではないが、長年生きてくると「自分の人生の流れ」のようなものがおぼろげながらに見えてくるものである。それは川の流れに似ている。急流や瀬にもまれることもあればトロ場もある。川がぐいっと曲がっているところではその先がトロ場なのか急流なのか、はたまた滝になっているのかわからない。人生はそんな先の見えないことやトロ場や瀬の連続である。
 僕の人生をそんな風に川の流れとしてふり返ってみると、それほどわるい流れでもなかったように思う。だからこの先も同じようにそれほどわるいこともなかろうと思っていたら、こんな病気になってしまった。
 これは僕の人生の流れの最終章としてわるいことなのか、よいことなのか、正直わからないのだ。他人からみればわるいことに決まっている。こんな病気にかかって死んでしまうかもしれないのだから。しかし、あながちそうとも限らないのではないかと思う。先日の「命の時間」でも述べたように、僕の川の流れがそろそろ終わりに近づいていて、最後にこの病気でゆっくりゆっくりと今世の流れを終えてゆく。そして川が最後は大海に流れ着くように、僕の命はゆっくりと海に溶け込んでいくのだとすれば、それはそれでひとつの川の終着点としてはそれほどわるくはないのではないかと。
 どの川もいずれは大海に注いで終わる。
 それは避けられないことなのだから。