こういうブログを書くことの罪悪感

 なにやら毎日闘病記ばかり書いているので、すっかり闘病記ブログと化してしまっている。
 じつはこういうブログを書いていることに、若干の罪悪感があるのだ。
 罪悪感というとオーバーかもしれないが、これを読んだ人、とくに友人はどう思うだろうかと考えると、こういうことを公表すること自体よろしくないのではないか……、いや、よろしくないのだ。
 僕のフェイスブックやブログなどをわざわざ見に来る人などは今は限られた人だけだから、それほど公表というほどのものでもないが、それでも昔の友人から連絡を受けたり、こないだのようにわざわざお見舞いに来てくれたりする人もあるので、こちらは恐縮の極みである。
 そういうために書いているのではなくて、こういう人間がこういう風に生きたという証を残しておきたいという気持ちと、毎日ヒマきわまる入院生活の中で、唯一せめてもの生産的活動がこれを書くことなので、すがるような気持で書いているというのが本音のところである。だから、あまり読み手のことはしっかり考えていないのだ。
 そういう自分本位の駄文を垂れ流すことがよくないことであるのはよくわかっている。わかっているのだけれども、すがる思いで書かずにいられないのだ。
 
 実際、これを読んだ友人はどう思うだろうか。
「いやいや、あいつ白血病で入院しちゃってるよ。びっくりだな」
 からはじまって、
「いやこれは声をかけるべきか、かけぬべきか。知らん顔もできないぞ。しかし声をかけたらお見舞いに行くべきか。いや行かねば人としていかんだろう」
 と思わせてしまっていたら、それはたいへん申し訳ないことであり、僕の本願とは違ってしまう。僕は読む人を悩ませるためにこれ書いているわけではないということだけはわかってほしい。
 そういうときは、ただ黙ってみていてくれていいのだ。むしろそうしてもらったほうが互いに気兼ねがなくてよいのではないか。お見舞いは遠いだろうし、クリーンルームということでいろいろ制限もあるし、時間もかかるので、たまに気が向いた時にメールでももらえたら望外の喜びである。でも、メールでも何をどう書いたらいいか悩むだろう。そういうときも、ただ黙ってみていてくれれば十分である。その気持ちは十分に伝わるから。
 けっして無理をしないでもらいたい。
 
 くどいようだが、僕はあなたがたを悩ますのがいちばん心苦しいのだ。
 あんなヤツがいて、あんな風に生きて、あんな風に死んでいったなと、そう見ていてもらえるだけで十分なのだ。
 そしてもし僕が死んだら、ごくたまに、ちょっとでいいから思いだしてもらえれば、それだけで成仏できそうな気がする。死にゆくものにとって、残った人たちに思いだしてもらうことが何よりの供養だと思うから。