命の時間

 日本には仏教思想というか、人は死んでもまた生まれ変わるという輪廻の考え方が根付いていると思う。
 これは僕もそう思う。人は、いや、あらゆる命には始まりがあり、終わりがある。そして終わりの次にはまた新しい始まりがある。つまり命は生まれ変わり死に変わりしながら永遠に連続してゆくものであると。
 その考えに立つとき、死というものは終わりではなく、新たな生へむけてのひとつのプロセスにすぎないということになる。
 宮沢賢治の有名な『雨ニモマケズ』の一節の、「南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」である。そう、こわがらなくてもいいのだ。
 生きものがいざ死にゆくときには、ベータエンドルフィンやドーパミンといった脳内麻薬物質がどばどばと放出され、死にゆく本人はお花畑のなかでふわふわとまどろみながら身体がゆっくりと活動を停止してゆくのだ。ここで無駄な延命処置などを施すと、このゆっくりとおだやかに身体が活動を停止しゆくのを妨げるから余計な苦しみが生じるのだと、ある高名な医師(有名なホスピスの院長)が言っていた。なるほど理にかなっている感じがする。
 
 そう考えたとき、「命の時間」というものが頭に浮かんでくる。医学的にいうと、余命○か月であるとか、生存率○パーセントというやつである。
 もし自分の持って生まれた命の時間を無理に引き延ばたりしせず、自然の摂理にまかせるのが一番だということになると、それではまったく治療をしなければよいのかという極論にも達するが、おそらくそういうことではあるまい。かといって、死んでしまう可能性があるほどの過酷な治療はどうなのか。
 今の僕が悩んでいるのはそこのところである。
 
 死ぬこと自体はさして怖くはない。
 それが何年先であれ受け容れているつもりである。心残りがまったくないといえばうそになるけれども、まあそれが僕の持って生まれた時間なのだとすればいたしかたない。ただ、今この時、どこまでの治療を選択すべきなのか。そこのところが難しいのだ。結論を出すタイムリミットは今月いっぱい。
 この難問に頭を悩ませていると、また髪がごっそり抜け落ちそうである。