もしもひとつだけ願いが叶うとしたら

 僕が入院している病院は、千葉県K市の手賀沼のほとりにある。
 このへんは都会と田舎の中間のようなところなので、病室の窓からは緑がたくさん見える。今はちょうど新緑の時期で、小高い丘の木々の若葉が日に日にその色の濃さを増し、天気の良い日にはそれがきらきらと陽光に輝くのがよく見えて気持ちがいい。
 今日は朝から雨模様だったのが昼ころからあがり、やがて燦々と陽が射してきた。窓のカーテンを開け放って雨上がりの新緑を見ているうちに、僕はいつかどこかでこれと同じような風景を見ていたような気がしてきた。
 
 いつ、どこでのことであったか……。
 しばらく考えるうちに、はたと思い出した。
 高校のころの校舎の窓から見た風景だ。
 
 それは今からもう四十年も前のことになる。やはり都会と田舎の中間の町の、わずかな谷あいを切り開いてつくられたその高校は、どの教室からも山の緑がよく見えた。
 入学式が終わり、ゴールデンウィークも近くなると山の木々は新芽を出し、窓から見える景色の色が変わる。そして梅雨が明けると木々は一斉に新緑の匂いを放ち、学校全体がその匂いに包まれるのだ。それはいかにも命が雀躍と芽吹いていく匂いそのもので、毎日胸いっぱいに吸い込んでいると、なんだかわくわくと元気が湧いてくるような、そんな気分になったものである。それは、僕らにとってはまさしく青春の匂いそのものであった。
 四十年経った今でも、この病室から新緑をながめていると、その匂いまで思い出される。あの頃と今と違うのは、あの頃の僕は青春に突入しようという時期であったが、今の僕は老境に突入しようという時期であるということと、あれは学び舎の窓からの景色だったが、今のこれは病院の窓からの気色であるということの二点だろう。四十年という時の流れと場所が違っても木々のいとなみは営々と変わらないにもかかわらず、それを眺めるこちらは天と地ほどにも変わってしまったのをしみじみと実感せざるを得ない。天と地、または明と暗、または青春から朱夏へ舞い上がる者と、白秋から玄冬へ流れゆく者の違いのごとしである。
 
 人は、無意識のうちに「自分は死なぬもの」として生きている。言葉を変えるなら、「死は手の届くところにあるものではない」とでもいったらよいだろうか。今日明日は死なない、来年再来年もおそらく死なないのだと無意識に思いながら多くの人々は日々を過ごしている。それはそれで自然なことだし、よいのだと思う。そう思うからこそ夢や希望や人生の目標というものが立ち、それに向かって努力できるのだから。人間、自分は明日死ぬのだと思っては何も為し得まい。
 これが、「いつとははっきり言えないが、死はもう手の届くところにあるのだ」となったらどうだろうか。
 
 僕はこの病気になってみて、自分でも意外すぎるほどあっさりとそれを受け入れてしまった。ひとことで言うならば、「そうなってしまったものは仕方ない」という心境である。
 思えばこの数十年間、数えきれないほどの「仕方ない」を経験してきた。自分の力や努力ではどうにもならぬ、受け入れるほかにどうしようもない「仕方ない」である。ただ、その分数限りないほどのわがままと好き放題もしてきた。そういうことをいくつも繰り返しているうちに、いつの間にか生死に対してもそんな気持ちになってしまったのかもしれない。もっともこれは、今の僕には家族といえる存在はなく、たとえ自分が死んでしまったとしてもあとに残す者たちがいないというのが大きな理由なのかもしれないが。
 
 ただ、今、「ひとつだけ願いを叶えてやろう」と言われたら、やってみたいことがある。
 それは、自分が死んでエリーのところへ行って、「おまえ、おれと馬車をやって楽しかったか?」と聞き、もし「楽しかった」と言ってくれたら(そこでは馬と言葉が通じるのだ)、エリーと共に一日でよいからまた現世に馬車で降りてきて、新宿の中央公園のまわりを子供たちを乗せて馬車でまわることだ。
 
 僕がいままでにやったたくさんの職業のなかで、もっともやりがいのあった職業のひとつが馬車屋である。僕の馬車に乗ってくれたお客さんたちは、例外なくみんなとても喜んでくれた。そんな商売が他にあろうか。僕に商才がもう少しあれば、そして馬のエリーが今も生きていてくれたならば、きっと、ずっと馬車屋をやっていただろう。
 エリーを死なせてしまったことは悔やんでも悔やみきれない。エリーはもともと身体に故障を持った馬だった。だから馬車をひけるほど丈夫ではなかったのだ。でも寒い冬も暑い夏も彼女は一生懸命やってくれた。それが彼女の命を縮めてしまった。
 だからもし叶うならば、ただ一日だけでいいからエリー自身が健康で元気はつらつで、僕の大好きな新宿で、僕の大好きな子供たちを乗せて馬車で走ってみたい。
 もちろんエリーもやりたいと言ってくれたら、の話なのだけれど。

 今日はそんなことを、窓の外の緑を見ながらぼんやりと考えていた。