さようなら、ヨーコさん

 仏典にこんな一説がある。
 
「徳のある人というのは、一回でもその人に会ったことのある人に、『ああ、どうかもう一度あの人に会いたいものだ』という思いをいだかせるものである」と。

 ヨーコさんは、まさにそんな人であった。
 はじめて会った朝、ほんの数分しか話をしなかったが、そのパキパキとさわやかな人柄にはたいへん好感が持てた。
 もう会うこともないのかな。でもまた会えたらいいなと思っていたら、翌日も会うことができた。
 僕がタバコ場でイップクをおえて病室に戻ろうとした時、偶然ばったり会ったのだ。
 
「やあ、ヨーコさん。また会ったね」
「あら! まあ龍さんじゃない。またこんなところでタバコ吸ってたね?」

 僕は、クスッと笑いながら、彼女と一緒にいた男性に目をやった。
 
「旦那さま?」
「うん。旦那」
「どうも、はじめまして。ヨーコさんには、なんというか、お世話になっています」
「あはは、悪太郎仲間だよ」
 ヨーコさんが横からチャチャをいれた。
「あは、そうですか。こちらこそよろしくお願いしますね」
 そう言った旦那さんは、ヨーコさんに負けずに快活で愛想がよく、威張ったようなところがひとつもみえない男性であった。
 
 そういえばヨーコさんはもうこの病院を退院するのだと言っていた。いったん退院して自宅に戻り、その後は緩和ケア病院――つまりホスピス――へ行くのだ。
 
「お迎えにいらしたのですか?」
「はい」

 旦那さんはにこにことそう答えた。
 それはどうみても、あと半年で我が妻をなくすという夫の顔ではなかった。この人とて、その事実を知ってからまだほんの数日しか経っていないはずなのにだ。
 
(うーむ。この夫にしてこの妻ありか……)
 
 僕は内心舌を巻く思いだった。自分の最愛の連れ合いが死ぬ、また、自分自身が死ぬ、そういうことを眼前の事実として、人はこうまで快活でいられるものなのか。

 エレベーターが七階で停まると、僕らは右と左に別れた。
 
「それじゃ、お元気で。お気を付けて」
「うん。龍さんもね」

 しばらくの後、病室の僕のもとへ看護婦さんが二枚のテレビカードとメモを持ってきた。メモは、白い紙片に、
「頑張れ!」
 とだけ書かれていた。
 
「メガネの女性が持ってきましたよ、名前も言わずに、○号室の龍さんに渡してくださいって」

 一瞬、僕はそれがどういうことかわからなかった。でもそれがヨーコさんだとわかると、一気に涙が込み上げてきた。
 今度こそ、もう二度と会うことはないだろう。
 僕はそのカードと白いメモを透明なパスケースに入れ、毎日目につく場所に置いた。
 このメッセージが、これからの僕の最大のはげみになるだろう。
 ヨーコさんがこの世からいなくなってしまっても、ずっと後まで。
 
 さようなら、ヨーコさん。
 ありがとう。