3・11によせて

 そのとき、僕は御苑大通りでお客さんを乗せ、新宿通りとの交差点で信号待ちをしていた。
 急に車がゆさゆさと揺れたので、誰かがふざけてうしろから車を揺らしてでもいるのかと思ったが、外を見ると電信柱や電線が大きく揺れていたので、そうではなくて地震なのだとわかった。
 
 その当時、僕はタクシーの運転手をしていた。運転席からみても、地震の揺れがかなり大きいとすぐにわかった。
 「ひどい揺れみたいですね」と、そんなことをお客さんと話したのを覚えている。
 
 信号が青になり発進しても揺れはなお続いていた。道路沿いのビルからは人がわらわらと飛び出してきた。
 その後はどうしたのか、よく覚えていない。お客さんをその場でおろしたのか、それとも目的地まで乗せていったのか。ただ、ラジオで、都内の電車や地下鉄は一斉にとまってしまったこと、東北では甚大な被害が発生していること、そして福島第二原発がひどいことになっていることなどを聞き、とんでもないことが起きたのだと思ったのを覚えている。
 
 五年前のその日は、あろうことか僕の五十回目の誕生日だった。
 それ以来、毎年誕生日のたびに、テレビやラジオでは震災の特集をやる。日本中の誰もが忘れもしない三月十一日。僕の五十代は奇しくもその波乱とともに幕を開けたのであった。
 
 今でもありありと瞼に焼きついている光景がある。その日の深夜、粛々と歩く人々の姿だ。車道は車がぎっしり詰まって動かない。普段ならほんの二十~三十分で行ける距離が何時間もかかった。
 停電のため電気が消えて暗やみになった国道の大渋滞の脇の歩道を、大勢の人々がひたすら黙々と行列をつくって歩いている光景は、まさに異様としか言いようがなかった。
 行列は、都心から遠くなるにつれ、その人数は少なくなってはいったが、それでも何十キロも延々と続いていた。
 深夜の闇の中を、ただひたすら黙って歩き続ける人々の行列。その光景を僕はおそらく一生忘れることはないだろう。

 震災直後、人々はいろいろなことを言った。そのころ僕はツイッターに凝っていたのだけれど、意見はネガティブ派とポジティブ派に二分された。
 力をあわせてがんばっている被災者たちのこと、自分たちは風呂にも入らず、冷たい食事を食べながら必死に救助に携わる自衛隊の人たちのこと、海外の人々が一斉に日本のために祈り励ましてくれていること、アメリカが救援の作戦を立ててくれていることなど希望のツイートをひろめる人たちと、地震原発事故の被害の甚大さをことさらに強調し、原発チェルノブイリ以上の被害になるだろうことや、政府や東電の無能さや、あげく福島はもうなくなってしまうだろうなどと喧伝する人との真っ二つにわかれたのだ。
 
 僕は、どうしてもネガティブな発言に同意することはできなかった。彼らの言うことはほんとうかもしれない。事実、五年が過ぎ原発はほとんど彼らが言ったとおりになった。被災地の復興もなかなか思うようにすすんでいない。
 けれども、あのときあの状況のなかで、ことさらに声を大にしてそれを言う必要があったのだろうか。自分たちは安全な場所にいて、何の援助もせず、ただ悲惨な状況と行く末ばかりを声高に叫ぶ人々に対して、僕は憎しみに近い感情すらいだいた。そういうときにこそ、少しでも希望を見出せることや、安心できること、そしてみんなで力をあわせて乗り越える勇気がわいてくるようなことを伝えるべきだと思ったし、現に心ある人々はみな、そういうことを述べていた。
 関東大震災の際にも、根も葉もない「朝鮮人が井戸に毒を流した」とのうわさがひろまり、パニックにおちいったことがあった。今回の震災でも、一歩まちがったらそういうことがおこっていたかもしれない。そういう心ない人たちのせいで。
 
 あれから五年。被災地の復興も原発の処理も、おそらくまだまだこの先何十年もかかることだろう。けれども僕らは負けてはいけないのだ。つらいことも苦しいこともなんとか乗り越えてゆくのだ。
 そうして、そういうつらく苦しいことがあったことを永遠に忘れてはならないのだ。